トムラウシ遭難考−戸田新介氏
2009-08-18


数人で登山をしているとき、パーティーのメンバーに何らかのアクシデントが起こったとします。たとえば、一人が岩場から転落して、崖下に、血を流して倒れているようなことは、まれに起こります。起こってはいけないことですが。このようなとき、メンバーに、岩登りの技量があるものがいたら、遭難者の所に下りてゆき、人命救助のための応急処置を図るでしょう。その間、岩登りの技量の無いメンバーは、遭難救助のサポートに全力を尽くします。登山技量は人によって違うので、ほとんど戦力にならない人がいることもあるかもしれませんが、それぞれ、できる範囲で全力を尽くします。上から見た感じ、ほぼ確実に事切れているだろうと思っても、一縷の望みを託して、人命救助に最大限努力することは言うまでも有りません。『どうせ死ぬから、救助隊を要請して、自分たちは登山を続けよう』などと考える人は、普通の登山者には絶対にいないでしょう。遭難者が出た場合、1%でも生存の望みがあるならば、生存のため、全力を尽くすことは登山パーティーの最低の責任で、人間としての当然の責務です。
 戸田新介様の文章はどのような状況での記述なのか詳細は分りませんが、一般に生存の可能性がほんの少しでもある場合に、『冷徹に全体の安全を図ることだけをかんがえるべき』などと平然と言い放つのは、人間の仮面をかぶった鬼畜の言い分に感じます。

 なお、多田ガイドは他の登山客を待たせているとき、動けなくなった石原大子氏・植原鈴子氏を北沼南部のビバーク地点に一人で背負って移動させ、そこでビバークさせていました。植原鈴子氏は残念ながらお亡くなりになりましたが、石原大子氏は翌日救助され無事生還を果たしています。
 北沼のビバーク地点(2地点)でお亡くなりになったのは、登山客3人とガイド1人です。残された遺族の悲しみは、想像も出来ません。ガイドだけではなく、一部同行登山者も必死になって助けようとしたけれど、その甲斐空しくお亡くなりになりました。寒い中、皆に打ち棄てられて死んだのではないことが、遺族にとっては、唯一の救いでしょう。どうして、『冷徹に全体の安全を図ることだけをかんがえるべき』などと、平然と書く人がいるのでしょう。このような意見だとしても、もう少し違った書き方も有るだろうに。
 http://subeight.files.wordpress.comは、今回のトムラウシ遭難が良くまとめられており、その点は評価できるのだけれど、こんな意見をコメント無しに掲載しているところが、情けなくなります。

 ところで、『今まで元気であった人が風と雨のもとで休んでいるつらさは動いている人からは分からないかもしれない』と書いてあるけれど、これは、どういう意味なのでしょう。遭難事故現場を想像すると、書かれた意味が、私には理解できませんし、同じ状況に自分が置かれたとき、このようになることは考えられません。目の前に、低体温で寒がって異常をきたした人がいるんですよ。普通に、人間の心があるならば、何とか助けたいと思うでしょう。必死で手足をさするとか、自分の持っているコンロ(ストーブ)でお湯を沸かして飲ませるとか。休んでいる余裕は無く、体を動かさなくてはならないので、それだけで体がホテッテくると思います。
 「異常をきたしているなど知らなかった」「手伝いを求められなかった」。後になって、そのように言うことは十分可能で、実際にそうだったかもしれないし、法的には、それで十分でしょう。人命救助の介護を自主的に手伝った登山客が1名存在したことが知られています。他の人はどうしていたのでしょう?

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