本ー琉球の時代
2018-02-08


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高良倉吉/著 『琉球の時代 大いなる歴史像を求めて』筑摩書房 1980.12
   
 この本は新版が出ているが、私が読んだのは旧版。
 著者の琉球史関連の本は多い。本書は薩摩藩侵入以前の古琉球について、グスク時代や大航海時代など琉球王国の実像が詳しい。
   
 第1章 黎明期の王統
 第2章 琉球王国への道
 第3章 大交易時代
 第4章 グスクの世界
 第5章 尚真王の登場
 第6章 琉球王国の確立
   
 琉球が大航海によって繁栄したのは中国皇帝から下賜された大型帆船と、中国からやってきた文人や航海技術者のおかげだった。中国から来た人たちやその子孫は、琉球政治にも深く関与し、琉球文化の発展にも大いに寄与した。本書にはこの間の事情について詳しく書かれている。
   
『 琉球人がアジアの荒海を越えて壮大な交易ルートを開拓するのに用いた船隻は中国の皇帝からタダで支給された大型のジャンク船であった。明実録には皇帝が琉球へ海船を下賜した記事が多く登揚しており、琉球側からの要請をうけて船の修理はおろか古くなり損壊のはげしい船にかえて新しい船隻を再支給するケースもまた多い。尚巴志の時代にはその船隻数がすでに三〇艘にも達していたというから、皇帝の琉球に対する恩情ぶりにはまことに驚くほかはない。どれほどの大きさの船だったかを示す記録はないが、十六世紀中葉の同種の中国船を例にとると、長さ四七メートル、幅一〇メートル、高さ四・五メートルもあり、乗員二〇〇〜三〇〇名を擁し、そのほかに大量の商物を積みこむことができたという。皇帝より支給された船もおそらくこれと同様であったろう。貢物としての馬を一〇頭余も積みこんでいる事例があるから、かなりの大型船である。この船は、季節風に乗じて四〇〜五〇日ほどでマラッカに達している。だが、いかに中国皇帝といえども、こうした温情ぶりを発揮できるのは国庫がゆたかた時期までであって、国力が衰えるにしたがい支給船隻の数量もしだいに下降線をたどり、一五世紀後半からは海船給賜の例が日立って少なくなっている。こうした状況を迎えて、琉球でも中・国式の造船術による。メイド・イン・リュウキュウのジャンク船を建造するようになったらしく、古謡オモロも船の進水式をさかんにうたっている。琉球製のジャンク船は、皇帝より支給された。メイド・イン・チャイナ"のものよりひとまわりは小型であったと老えられている。
 琉球船には通常三種類の名前がつけられた。その一つは、「恭字号船」「勝宇号船」のように千字文の好字を冠した名称をもつもので、その名は外交文書に記載される。今一つは「コシラマル」「トコシマル」などの純然たる船名であり、同様に外交文書に併記される。三つ目は一種の神名で、たとえば「せぢあらとみ」「いたきよら」などのように琉球語のめでたい言葉であらわされている。神名には、船出の際の儀式や航海安全の祈願などにおける宗教的祝福・加護の念がこめられているのだろう。
 第二の問題は航海術である。記録が残らないので正確な点は不明であるが、琉球船は中国三大発明の一つである羅針盤を装備していた形跡があり、たとえば船舶に「看針舎人」なる羅針盤係がおり、陸伝いにたどる沿岸航法や北極星・南十字星を指針とする天文航法とともに活用されたと思われる。『歴代宝案』中の執照文には船長に相当する「火長」、事務長に和当する「管船直庫」が記載され、彼らが「梢水」と称される水夫・要員を指揮・監督して海船をあやつり、使節団・礼物・附搭貨物などを無事目的地に届ける大任をおびていたらしいことがうかがえる。しかも、航海の最高責任者ともいうべきこの火長はほぼ例外なしに琉球に帰化および居住する中国人であったことも重要で、航海術にすぐれた中国人が大きく関与していたことが注目される。

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