北方領土の十字架
2011-10-29


 択捉島には日本よりもロシアが先に進出し、ロシアの領土であることを示す十字架を立てていた。日本人として最初に探検した最上徳内は、当時、択捉島に居住していたロシア人イゾヨゾフ等に、択捉島やその北の様子を聞き、千島が列島状であることを知った。
 その後、最上の案内で択捉島に上陸した近藤重蔵は、ロシアの領土標識である十字架を倒して、「大日本恵登呂府」の標識を立てた。ところが、日本では「世界で始めて日本が領土であることを宣言した」などと、ウソがまかり通っている。
 
 近藤が立てた標識は、その後痛みが激しかったので、新たに「大日本地名アトイヤ」の標識が立てられたが、これも、明治9年に持ち帰られた。このとき持ち帰ったものが、函館の北洋資料館に展示されている。これが、その写真。
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 北洋資料館の解説では、「十字架跡に・・・」と書かれており、注意して読めば、ロシアが先に到達していたことが分かるだろう。下の写真は、北洋資料館の解説。
 
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 北方領土問題では、日本政府の主張が正しいと国民が感じるように、都合の悪い事実は隠すことが多いので、日本の多くの記述では、近藤が十字架を倒したことは触れない。北洋資料館の解説に「十字架跡」と書いているのはなぜだろう。歴史を正しく記載しようとの気持ちと、日本に都合の悪いことは書きたくないとの気持ちの狭間だろうか。

 下の写真は、北洋資料館の入り口。

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北方領土問題の解説は、ここをご覧ください。
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やさしい北方領土問題の解説は、ここをご覧ください。
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[日露・日ソ関係]
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[歴史問題]

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